黒澤明 は一言で言うと“ヤバい”。
そのヤバいは、映画作品に対しての感想でもあり、人間性に対しての感想でもある。
実際によく知らない人の為に説明すると…
黒澤明といえば「羅生門」「七人の侍」など長年にわたり多くの優れた作品を重ね、その鋭い人間洞察、きわめて人道的な主題、力強く斬新な表現などにより、観るものに深い感銘を与えてきた世界的に注目される映画監督である。
(※京都賞受賞功績より抜粋)
皆、凄い映画監督だとは知っているだろうが、黒澤明を語る上で
凄い映画を撮った話よりも“ヤバイ伝説を残した”クレイジーな話
の方が喋りたくなってしまう。
勿論、映画も凄まじく面白い。著者は黒澤明が大好きである。
ほとんど全ての作品は見ており、中でも七人の侍は7〜8回は繰り返し見た。
そんな筆者が黒澤明を語る時に『絶対にハズさない』クレイジー伝説的エピソードを6つ紹介させて頂きたい。
初めに。【 黒澤明 の生涯】

1910年3月23日現在の東京都品川区に生まれる。
1936年PCL映画製作所(現・東宝)に入社し、助監督として山本嘉次郎監督に師事。
1943年「姿三四郎」で監督デビュー後、1950年の「羅生門」でベネチア国際映画祭金獅子賞、第24回アカデミー賞特別賞(最優秀外国語映画賞)を受賞。
「世界のクロサワ」と呼ばれる日本を代表する監督のひとりとなる。
ジョージ・ルーカスは「自分の人生と作品にとてつもなく大きな影響を与えた」と語り
スティーブン・スピルバーグは、「素晴らしい黒澤作品から、我々は今も刺激を受けている」と賞賛。
マーティン・スコセッシは、「黒澤は私や他の多くの映画製作者の師だ」と言う。
1998年9月6日、東京都世田谷区成城の自宅で死去。享年88歳。
①:初監督作品でクライマックス格闘シーンをどうしても3日以内に撮影しなければならないにも関わらず、3日間酒を飲み続けていた話。
姿三四郎
黒澤明の初監督作品は、1943年に公開される『姿三四郎』。富田常雄の同名小説を映画化したモノクロ作品である。

- 柔術家を目指して田舎から上京してきた青年・姿三四郎が、師匠との出会いやライバルたちとの死闘を通じて人間的に成長していく様を描いている。
- ワイプを使用した場面転換や、主人公が人間的に成長する筋立てなど、黒澤映画の特徴的なスタイルがすでに確立されている。
黒澤明 の逸話とは?
最後のクライマックスである、三四郎と檜垣の決闘は箱根仙石原で撮影された。

撮影では強風が必須!
このシーンは強風が吹いている情景が必須であり、当初、大型扇風機による風でセット撮影の予定だったが、黒澤明はセットを見て「他の決闘シーンを上回るどころか、作品そのものを台無しにするような貧弱な映像しか撮れない」と思った。
そこで会社を説得し、ロケーション撮影の了解を得た。ただし、『3日以内に撮る』という条件付きで。
そして強風の吹くことで知られていた仙石原にやってきたが…全く風が吹かなかったのだ!
![2021年 仙石原ススキ草原 [仙石原高原] はどんなところ?周辺のみどころ・人気スポットも紹介します!](https://i0.wp.com/sawayaka-shoten.net/wp-content/uploads/2021/05/image-3.jpeg?resize=358%2C268&ssl=1)
こんな所で戦えるか!というぐらい、なんとも平和な仙石原。
風が吹かなければ撮影が出来ない!
そこで風を待つ事にして、とりあえず1日目は役者・スタッフ達と酒を飲み1日を過ごした。
そして2日目も、風は吹かなかった。諦めて役者・スタッフ達と酒を飲み1日を過ごした。
そして3日目。風は吹かなかった。
「あれ〜〜?」と全員呆然。会社を説得し金を出してもらい結局何もせずに酒を飲むだけで終わる最悪なロケ…。
黒澤明は朝から自暴自棄になり、皆でビールを飲み始め、酔いが回ったその頃…。
風が吹いた!
一陣の風が、さっと窓から吹き込んで、床の間の掛け軸が音を立てて舞い上がった。
急いで全員で機材を運び、強烈な風が吹くなか、撮影が開始された。
この風を黒澤明は「まさに神風であった」と語っている。
そして『姿三四郎』は情報局国民映画参加作品として公開されたが、戦時下の大衆に受け入れられて大ヒットした。
(※黒澤明『夢のあしあと』より抜粋)
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②:女性役者を劇中の工場で本当に働かせて過酷な役作りをさせたらみんな女優を辞めてしまった話。
一番美しく
黒澤明のデビューから2作目となる作品、1944公開『一番美しく』。

- 女子挺身隊(ていしんたい)という、主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が減る中、強制的に工場などの労働をする組織があった。
- そんな女子挺身隊として、郷里を離れて工場で寮生活をしながら兵器の増産に努める少女たちの姿を描く作品。
黒澤明の逸話とは?
黒澤明は、この話を映画にするにあたって、セミ・ドキュメンタリーの形式を取る事にした。
工場を借りて、そこを舞台にお芝居を撮るのではなく…
工場で実際に働いている少女の集団をドキュメンタリーの様に撮ってみたいと考えた。
だが、実際に働いている人は当然芝居の素人であり、皆仕事が忙しく撮影に付き合っていられない。
だから仕方がない。女優をその工場で働かせる事にした。
この撮影は昭和19年の1月から3月にかけて行われた。
女子挺身隊員になった女優達もスタッフも、戸塚の日本光学の寮へ泊まり込んでの撮影だった。
その気取り、芝居気、俳優特有の自意識を取り去って、本来のただの少女に戻してしまおうと考えた。
そこで撮影は、駆け足の訓練から始めた。
バレーボールをやらせ、鼓笛隊を組織し練習させる。

その鼓笛隊に街の中を進行させた。もちろんカメラが回っていない日でも毎日だ。
女優達はみんな、笛を吹き太鼓を叩きながら、スタッフを横目で睨んで通り過ぎて行った。
それから工場へ撮影に行くが、各職場で働く女優達は脚本に指定された芝居はするが、カメラを意識するよりも与えられた作業や工作機械の操作の方を優先する様に命じられた。映画の撮影なのに。
そして撮影が終わると、この作品に出演した女優達が撮影終了と同時に女優を辞めて結婚してしまった。
ちなみに、この映画で主演を務めた矢口陽子は、後の黒澤明の妻となった。
(※黒澤明『夢のあしあと』より抜粋)
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③:一般映画の二倍の製作費をかけて“七人の侍”を作ったけど、撮影期間3分の1の時点で製作費を全部使い切っちゃった話。
黒澤明最大のヒット作となった、1954年公開『七人の侍』

- 戦国時代末期。戦国武将たちが天下統一を狙う最中、百姓たちは苦しい生活を強いられていた。
- 夜盗と化した野武士たちが、村に度々襲撃にやって来ては、あらゆるものを奪い去って行く。農民たちは苦肉の策として、用心棒を雇うことを決断。集まった七人の侍たちが、村を救う。
黒澤明の逸話とは?
この映画はとにかく金がかかった!
当時では無かった、複数のカメラででシーンを同時に撮影する方式を使ったり、望遠レンズで迫力あるシーンを演出したいと言い出した事で、とにかく金がかかった。
さらに、通常の映画では、衣装さんが時代に合わせた衣装を用意し、役柄によっては汚したりして雰囲気を作る。
しかし黒澤明は『この時代の衣服の汚れ方をリアルにしたい』
と言い出した。

一体どうしたかというと、衣装さんやスタッフが撮影前から毎日村人達の衣服を着て生活。
日常的に着ているからこそ出来る、肘の部分の擦れ具合や泥の汚れ具合などをリアルに描いた。
村人達の服1つにそこまでこだわる監督が、他のセットや小道具にこだわらない訳が無い。そうしてどんどん予算は削られていった。
すぐに予算を使い切り
撮影所所長が予算と日数オーバーで責任を取って辞表を出すという騒動に発展。
会社側の命令で、クライマックスの撮影を残して強制的に撮影はストップされた。
お蔵入りになると思っていた七人の侍だが、黒澤明は止む終えず撮影済みのフィルムを編集して作品を完成させた。
ところが、試写会では、いよいよ迫力のあるクライマックスの戦!というところでフィルムは切れた。

「ちょっと待ってくれ!この続きを見せてくれ!」と重役たちは黒澤明に懇願!
やむを得ずお金を出し、撮影続行を許可する。
黒澤はのちに「最初からこうなることを予測して最も肝心な最後の大合戦を後回しにして撮らなかったんだよ」と語った。
そうして撮影は再開され、喜ぶスタッフと役者達。
だが、ここから役者にとっての地獄が待っていた。
夏に撮影される予定だったシーンを2月の時期に行い、全員薄着で泥と雨の中で地獄の様な合戦をする事になる。
皆、カットがかかるとタライのお湯を頭からかぶって泥を取ると同時に暖をとってしのいでいた。
「あれ以上やったら俺たちは死んじゃうよ」と語る人も居たという。
そうして、計1年以上の撮影期間を経て制作費は予定より大幅にオーバーし
通常の7倍、当時では破格の2億1千万円の作品ができた。
これが日本を代表する作品になったから本当に良かった。
(※AKIRA KUROSAWAより抜粋)
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④:仲代達矢がただ歩くだけのシーンで 黒澤明 ブチギレ。NGを連発させて朝9時〜午後3時まで撮影させたが使ったのは4秒だった話。

言わずと知れた名俳優、仲代達矢。
俳優座演劇研究所付属俳優養成所に4期生として入所し、日本を代表する作品に多数出演。日本映画界に欠かせない存在である仲代達矢だが、新人の頃に参加した黒澤明作品の印象は最悪だった。
黒澤明の逸話とは?
七人の侍での仲代達矢の役は、七人の侍ではなく、モブの通りすがりの侍。

ロケでは、宿場で百姓が侍を探すシーンに登場し、ただ歩くだけだった。
撮影開始の9時から、数名の先頭で歩き始めた仲代達矢だったが、NGが飛ぶ。
「何やってんだ!もう一回!」
テイクを重ね何度も何度も歩くがNG。理由は言ってくれない。
300名のスタッフは仲代のテイクOKをひたすら待つ。
三船敏郎も志村喬も待っていた。
「俳優養成所では歩き方も教えんのか!」と黒澤明は怒りまくるが、何が悪いのかさっぱり分からない。
「こいつに昼飯は食わせるな!」と昼飯も食わせて貰えず、午後も同じ様にただ歩くだけ。
3時頃にやっと「しょうがないか。これで行こう」とOKが出た。
その後映画が封切られると、仲代達矢はすぐに映画館に足を運んだ。
そうして確認した所、使われていたのはたったの4秒。バストアップのみだった。

仲代達矢は未だに何が悪いのかわかっていないとも言う。
(※黒澤明を語る人々より抜粋)
⑤:七人の侍の大事なキャストである婆さん役は、老人ホームで見つけた一般人。

『七人の侍』では家族を野武士に殺された久右兵衛のお婆さんという役があった。
黒澤明の逸話とは?
勿論最初は役者でオーディションをしていたが、納得がいかず怒り狂う黒澤。
そこで助監督が老人ホームで見つけてきたのがキクさんという方。
この方はハトの豆売りをしていたお婆さんで、東京大空襲で家族を失った経験があった。
役柄と同じ悲しみ・経緯を持つ事で、役に大抜擢。
世界的有名映画に登場するキャストの一人は、完全なる素人だった。
しかし…実際に撮影をするとセリフが言えない。
仕方がないので声は吹き替えにした。
ちなみに侍たちが集めた百姓を訓示する場面にも、老人ホームにいた女性たちが出演している。
(※『七人の侍』Wikipediaより抜粋)
⑥: 黒澤明 は撮影の邪魔だからという理由での民家のぶっ壊し事件
エド・マクベインの小説が原作の1963年に製作した現代劇。

- 息子と間違えて誘拐された運転手の息子・進一のために身代金を用意した権堂。進一は助かったが誘拐犯を捕まえるため刑事たちが奔走する。
黒澤明の逸話とは?
この物語のカギとなるのが特急「こだま」。刑事が犯人の指示により身代金の入ったカバンを持ち電車に乗っていたのだが…
「酒匂川のたもとで子供を見せる。確認したら、窓から現金入りのカバンを投げよ」
と指示され、窓の外にカバンを放り投げる。
そこで黒澤明が言ったセリフは
「民家の屋根が邪魔だからどかそう」
そう。列車の窓から子供の姿を見ようとすると、川と線路の間にある民家の屋根にさえぎられる。
そこで黒澤監督は、屋根を取るように指示した。民家に頼みこみ、東宝の大道具部隊が屋根を壊したという。

家主の話では、「ある日、映画のスタッフがやってきて頼まれたので、復元を約束して許可した」という。
勿論その後は、東宝の大道具部隊がキチンと直したという。優秀である。
※引用https://news.mynavi.jp/article/railmovie-3/
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なぜ黒澤明はここまでするのか?
6つのエピソードを紹介しましたが、まだまだ話は尽きません。
黒澤明がここまでやる理由は一体何か。
それは黒澤明が唯一残した自伝『蝦蟇の油―自伝のようなもの』の中に隠されていた。
この中の一文には
私は、特別な人間ではない。
特別に強い人間でもなく、特別に才能をめぐまれた人間でもない。
私は、弱みを見せるのが嫌いな人間で、人に負けるのが嫌いだから努力している人間に過ぎない。
ただ、それだけだ。
と、思いが綴られいた。
黒澤明が破天荒なまでにこだわる理由は
面白いシャシン(映画)を撮りたいからに他ならない。
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エヴァ 庵野秀明が監督したアニメ “ 彼氏彼女の事情 ”がめちゃくちゃエヴァだった。
次回またどこかのタイミングで、黒澤明の逸話をご紹介していきます。
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